イン・ザ・メガ集団暴走
シエンタの助手席というのは、つくづく座り心地のいい席だと思う。
妻がハンドルを握り、私はナビの画面と前方の景色、スマートフォンを眺める。運転への苦手意識が抜けないまま大人になってしまった私にとって、助手席は罪悪感と安堵が同居する、奇妙に居心地のいい場所である。
ただ、ずっと座っているだけでは、さすがに申し訳が立たない。運転という大仕事を任せてしまっている以上、せめて私にできることを、と探した結果がペットボトルのキャップを開ける係である。「開けて」と言われればカチリと開けて手渡し、「閉めて」と言われればカチリと閉めて元の場所に戻す。それだけの、ささやかな仕事で、私はなんとか家族の中の居場所を確保しているのだった。
その日、私たち家族はディズニーシーへ向かっていた。早朝、というほどでもない時間に出発したからか、片側二車線の道路は思ったほど混んでいない。妻はスイスイと右車線を走る。ほのぼの、という言葉がそのまま当てはまる空気だった。
その空気を、前方左車線を走るバイクの集団が、静かに切り裂き始めた。
「おお」と、私は声に出してしまった。
テレビでしか見たことがないような、いわゆる尻上がりのシートのバイク。後ろにいくほど座面が高くなる、あの形状である。実物を初めて目にしたかもしれない。彼らは私たちのシエンタの少し先を、流れに対してやや遅めの速度で連なって走っていた。
少しだけ身構えた。だが、それ以上に、好奇心が発動していた。助手席というのは、考えてみれば絶好の観察席なのだ。しかもこちらは右車線、彼らは左車線。これから追い抜いていくということは、彼らの最後尾から先頭まで、一台ずつ順番に、横目で観察していけるということになる。サファリパークの巡回バスにでも乗った気分である。少しの恐怖と、それを上回る「見たい」という欲望。
妻がアクセルをじわりと踏み、私たちは右車線から、彼らに並びかけた。
ちらりと左を見ると、バイクは五台ほど。最初に視界に入ったのは、最後尾を走る十八か二十くらいの少年だった。バイクのリアフェンダーには、漢字が書かれていた。「夜露死苦」ではなかったが、まあ、そういう系統のやつである。私は内心、「ちゃんと書いてあるんだ」と感心してしまった。テレビの中の世界がそのまま現実に存在することへの、変な感動である。
ヘルメットはきちんと被っている。安全運転、と言ってもいい。ただ、ヘルメットからはみ出した髪の毛は、いかにもツッパリ然としていた。
私たちが彼を追い抜こうとしたその瞬間、列の中ほどを走っていた少年がほんの少し、車線をこちらへ寄せてきた。妻が小さく息を呑むのが分かった。
だが、彼が車線をこちらへ寄せた幅は、せいぜいMacBook Proを横に置いたくらいのもの。動いた距離としては、気持ち、と言っていい程度である。
これは、と私は思った。これは「幅寄せをした」というアリバイ作りなのではないか。素通りされてしまっては、彼らの中で示しがつかない。だから、ポーズとしての幅寄せを、自分にも仲間にも見せておく必要がある。そういった社会心理学が働いたのだろうか。
FF7のバイクミニゲームのクラウドのように、彼はバットを振り回したりしない。我々の窓を蹴ったりもしない。彼らは彼らで、安全運転を遵守しながら、しかし「ヤンチャである」という看板を下ろさないために、最低限のパフォーマンスをしている。それは思いのほか、きちんとした作法のように見えた。
そうして、私たちは一台、また一台と、彼らを追い抜いていった。最後尾、その前、真ん中、二番手。一台抜くごとに、私はその乗り手を観察した。みんな、それぞれにツッパっていた。それぞれに、髪型でオトナ社会に対する姿勢を表現していた。
そして、ついに先頭のバイクの横に並んだ。私は当然、最も濃い人物がそこにいるものだと思っていた。
集団のリーダーというのは、いちばん凄みのある顔をしているはずだ、という何の根拠もない期待を、私は抱いていた。
ところが、現実は、私の予測を軽々と飛び越えてきた。
先頭は、女性だった。しかも、眼鏡をかけていた。年の頃は、後ろの少年たちと同じくらいだろうか。レンズの奥の目は、どちらかといえば、おとなしそうに見えた。
脳というのは、予想通りの出来事ではほとんど何も学ばないのだそうだ。期待と現実がズレた、その差分の大きさだけドーパミンが出て、その瞬間にだけ、人は何かを記憶する。だとすれば、私の脳は今、彼女の眼鏡を、しっかりと刻みつけている最中なのだろう。
そもそも、私の頭の中にある「暴走族」のイメージは、自分で目撃して作り上げたものではない。テレビが、漫画が、ニュースが、繰り返し同じナラティブを投げ込んできた、その堆積物である。誰かがどこかで設計し、誰かがどこかで配り、私はそれを受け取り続けて、いつのまにか、その物語の善良な信者になっていた。集団暴走の先頭は、凄みのある顔をしている少年であるはずだ。そう信じることに、何の疑いも持っていなかった。
これぞ認知バイアス。これぞヒューリスティック。装着していることにすら気づかぬまま、私は誰かが配った物語の中を、これまでずっと生きてきたのだった。
しかし観察を深めると、もう一つ気づいたことがあった。彼女は、後列の少年たちのような派手な見た目はしていない。けれど、グリップを規則的に捻って、エンジンをブンブンと鳴らしている。あの音を、彼女自身が出しているのだ。
ヤンチャしたい、という本能のようなものが、人間には誰しもあるのだろうか。
進化心理学にコストリーシグナリングという概念がある。あえて代償の大きい行動を取ることで、自分の力や勇気や資源の余裕を、群れに対して証明する。あの爆音も、夜露死苦の文字も、ポーズとしての幅寄せも、もしかすると、そういうシグナルの一種なのかもしれない。
おとなしそうな顔の奥で、彼女は何を抱えてあのコミュニティの先頭に立っているのだろう。どのように仲間と出会い、どのように先頭を走るようになったのだろう。
孤独だったのか?寂しかったのか?社会とのつながりが欲しかったのか?集団暴走、これもファンダムなのか?
眼鏡の奥の目には、私には到底想像できない物語があるはずだった。
爽やかな朝の光のなか、サイドミラーに次第に小さくなっていく集団暴走を眺めながら、私はディズニーシーまでの道のり、ぼんやりとそんなことを考えていた。
妻は彼らを無事に追い越せたことに安堵したようで、肩の力を抜いていた。車内には、また、ほのぼのとした空気が戻ってきた。
その空気の中で、私は自分が今しがた剥がしたばかりの、固定観念のレンズの厚みについて、もう少しだけ考えていた。テーマパーク前のウォーミングアップとしては、少し情報量が多すぎる朝だった。
このエッセイはムロヤ原作のもと、Claude Opus 4.7が朝井リョウ風に編集しました。
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